お金は必要なときに必要な分だけ湧いてくる。

 

 

だから必要な状態になるのが先なのである。

 

今月必要になったレンタカーと自分磨きのための食材費用15万円。ちゃんと湧いて出た。

 

ありがたやありがたや。

 

 

こんどタイにいきたいので(ダジャレじゃないよ)それまで、このいただいた15万円。しっかり循環させたいと思います。

 

 

ありがたやありがたや。

お金は必要なときに必要な分だけ湧いてくる。

 

 

だから必要な状態になるのが先なのである。

 

今月必要になったレンタカーと自分磨きのための食材費用15万円。ちゃんと湧いて出た。

 

ありがたやありがたや。

 

 

こんどタイにいきたいので(ダジャレじゃないよ)それまで、このいただいた15万円。しっかり循環させたいと思います。

 

 

ありがたやありがたや。

論理的ではない話。

暇だから結構どうでもいいことを考えているのだけれど、自分の声に従って進んだとして、どうしたら間違いだと気づくのだろう。自分の感覚に耳を澄ませて進んだ道に間違いはないのだとしても、その道が成功や幸福といった道ではなく、一般的な道、もしくは不幸への道だったとしても、それは間違いにならないのだろうか。、、そもそも前提が違うのかもしれない。自分の声に素直に従うことができる。という部分がそもそも難関なのかもしれない。自分の声に素直に従うことができる時点でそもそも少数派。自分の声が聞こえる時点でそもそも正解ということになるのかもしれない。しかし、その自分の声が不幸へと向かいたいなどといった果てに向かった不幸は、それはそれで幸せなのだろうか。太宰治人間失格のように、自分(太宰治本人)の経験も血となり肉となって、世の中に受け継がれ人々の心に残る物語となっていくのだろうか。(これは太宰治がそもそも不幸だという前提になるが。彼が本当に不幸だったかは全く分からない。ただ、他の道はなかったのだろうか、なるべくしてなったのだろうか、そこは疑問である。)そうなってくると自分の声とは何なのか。という話になってくるのだが幸せであれ不幸であれ、(そもそも幸せも不幸もないのかもしれないが)。他人にとって、あるいは世の中にとって価値のある人間になること。それが自分の声を聞きたどり着いた先にある結果なのかもしれない。なぜなら自分の(内なる)声というものは一人一人違うものであり、似通ったものはあったとしても誰一人として同じものはないその人にしか分からない完全なオリジナルである。それが素直に聞こえるとなると、やはりそこで聞こえる声(その人の世界観)はもはやその人にしか感じることのできない世界となる。他人と違うということは大きな価値である。ましてや、その人が内なる声を外に発信してくれるということは、それに触れること=自分では天地がひっくり返っても味わうことのできない世界を疑似体験できる。これは大きな価値である。その声が純粋であればあるほどいい。なんの混じりけもなく心からの直接の叫びであればあるほど価値を増す。ということになる。(しかし決してその場合使われる文字はただの記号であってはならない。伝えるというを手順を怠ってはならない。)(言葉は伝えるためにあるのだ。言葉の裏の形が見えるか?温度がみえるか?匂いがみえるか?)こうなると太宰治の人生が幸せか不幸かはさておき、彼が残した物語は世の中に大きな価値を残した=正解だった。と考えることができる。

芋女、芋女であることに気がつく。

 

こんにちは。深夜のblogletterのお時間です。


初めてこんな始め方をしてみました。今日のお供は豆乳ルイボスティーです。

 

 

 

 

私は以前、半年ほどニート生活を送っていた。



私が以前ニートをしていた時は、家族以外に合う人なんていなかったし、自分の車もなかったので出かけるのは買い出しの付き添いぐらい。

毎日ノーメイクだし、服装なんて気にしてないし、環境が環境だからか、楽しみは毎日のご飯と、自分でお菓子やパンを作ること、バジルの苗を買って育てること、そして日向ぼっこをしながら近所の猫を観察すること、携帯でスパイダーソリティアをすること、そんな毎日だった。

いま思い返すと見事なまでに老人のような生活を送っていたわけで。、なんというかまあ、その時に撮った写真なんかを見ると、明らかにブスなのだ。体重は今よりも痩せているはずなのに、なんだか顔はむくんでいるし、ものすごく芋っぽい。28とは思えないような田舎臭さを醸し出していた。

結構まじめに「私はこのままでも幸せだなあ」なんて思っていたところもある。

 

ダイエットしたところで家族しかいないし。

おしゃれしたところで家族しかいないし。

 


そんな感じで私のそういった内面のずぼら加減が見事なまでに表情に現れていたのだと思う。

 


しかし、今、なんだ、常夏の沖縄に来て、仕事を始めて、他人と関わるようになってからというもの、メイクに気を使いだし、ダイエットを始め、車の運転まで始めようとしている。

さらに最近運よく仕事以外での臨時収入を得た私。余裕が出てくると人は変わるようだ。もっと自分磨きにお金を使いたい。もっといろんなホテルに泊まりたい。もっときれいな自分になりたい。

つい数か月前までは老人のような生活を送っていた芋女がCHANELエルメスの化粧品を欲しがっている。

外見がすべてではないと思い込んできた。というか、そう思いたかった。

 

けど違った。

 


世の中は外見がほとんどなのだ。

思わず目をそむけたくなるが、実際私もそうだ。好かれるなら可愛い子に好かれたい。

自分より太った人は口にしなくてもぶっちゃけ心の中でデブだなあ。と思ってる。

 

見た目がすべてではないけど、ほとんどすべてが見た目なのだ。




可愛い子はラインを聞かれても、田舎者の芋女は聞かれない。(私)

可愛い子はあれやこれやと話を振られても、芋女の私に話は振られない。


ああ。今まで目を背けていた、。本当は知っていた。
私は紛れもない芋女だったのだ、、。

(本当は違う感じで書きたかったんだけど気づいたらこうなってた)

 

 

2月にやることを書き記しておく。

 

 

わたしが2月にやりたいこと。

 

・車の運転 レンタカーを借りる。(→これはもう予約済なのでOK、後は練習あるのみ。)

 

・クララ飯、食生活改善。食品にお金をかける。

野菜中心。ときめく生活。身体に良いものを選択する。自分の身体をつくる。

 

まずはこの二つ。

今まで人生の中で怠ってきた外見を磨こうと思う。

メイク、洋服。正直私は自分に自信がない。自信はあるけど、他人にあこがれられるような外見をしていない。私はあこがれられたい。私は尊敬されたい。見た目を変えたら本当に人生変わると思う。


外出するのも旅行するのも毎日がもっと楽しくなる気がする。というか、なる。



自分の心が分からなかった私へ。

 

 

 

今日はものすごい発見。

 

 

発見、というか、教えを頂いた。

 

 

なんの気なしに見た小田桐あさぎさんのショート動画にもう、まさに目から鱗

 




「心は自分の行動と同じ。」

 

「心が分からないときは自分の行動から見ていくのが一番いい。」



 

うわ、なんで、今まで気がつかなかったんでしょう。

 

いつも誰か私の心を教えてよ。と願っていた私、朗報だ。


心=自分の行動。




自分の行動=心。

 

 

 

 

無意識に背筋が伸びた日でした。

20代、そして30代。

もうすぐ20代が終わる。

終わるって言っても後一年半。うわ。

 

どうやらあと一年半でわたしの20代は終わるらしい。

 

 

色々あったようでなかった気もするし、なかったようで色々あったような気もするし、成長したかといえば、うーん、成長したような、してないような、、。

 

成長はしたけど、目を見張るほどの成長、人間変わってしまうほどの成長はしてないから、やっぱりわたしは今まで通りの場所にしかいてないんだと思う。

 

仕事を辞めたのは去年の5月。27になって、28になって、29になって30になるのか。

 

でも、詳しく、精密に思い返せば、確かに色々な変化はあった。

 

だけど、その変化を良しとしてしまうと、なんだか自分のことを自分で慰めてしまっているような気持ちになるから、それはそれで、そこで満足して、今の現状を良しとして、自分を甘やかしてしまう理由にもなってしまいそうだから、わたしのこの数年間の変化は、まだ目に見えないところで小さく燻り続けて、そしていつか、というか、確実に将来、大きく表面化して欲しいと、願望ではなく、これはもう事実として、すでにここにあるわけで、つまりその、なんていうか、近すぎる人の小さな変化にはなかなか気付けないってやつです。わたしの心の中でも、少しずつピースが入れ替わってきていて、もっと美しいピースが揃っていくことをこの先楽しみに、生きていこうと思うばかりです。

 

 

なんだ、結局人生にわたしは希望を見出している。

 

わたしは結局、そう、結局、最後まで幸福に生きたいみたいです。