論理的ではない話。

暇だから結構どうでもいいことを考えているのだけれど、自分の声に従って進んだとして、どうしたら間違いだと気づくのだろう。自分の感覚に耳を澄ませて進んだ道に間違いはないのだとしても、その道が成功や幸福といった道ではなく、一般的な道、もしくは不幸への道だったとしても、それは間違いにならないのだろうか。、、そもそも前提が違うのかもしれない。自分の声に素直に従うことができる。という部分がそもそも難関なのかもしれない。自分の声に素直に従うことができる時点でそもそも少数派。自分の声が聞こえる時点でそもそも正解ということになるのかもしれない。しかし、その自分の声が不幸へと向かいたいなどといった果てに向かった不幸は、それはそれで幸せなのだろうか。太宰治人間失格のように、自分(太宰治本人)の経験も血となり肉となって、世の中に受け継がれ人々の心に残る物語となっていくのだろうか。(これは太宰治がそもそも不幸だという前提になるが。彼が本当に不幸だったかは全く分からない。ただ、他の道はなかったのだろうか、なるべくしてなったのだろうか、そこは疑問である。)そうなってくると自分の声とは何なのか。という話になってくるのだが幸せであれ不幸であれ、(そもそも幸せも不幸もないのかもしれないが)。他人にとって、あるいは世の中にとって価値のある人間になること。それが自分の声を聞きたどり着いた先にある結果なのかもしれない。なぜなら自分の(内なる)声というものは一人一人違うものであり、似通ったものはあったとしても誰一人として同じものはないその人にしか分からない完全なオリジナルである。それが素直に聞こえるとなると、やはりそこで聞こえる声(その人の世界観)はもはやその人にしか感じることのできない世界となる。他人と違うということは大きな価値である。ましてや、その人が内なる声を外に発信してくれるということは、それに触れること=自分では天地がひっくり返っても味わうことのできない世界を疑似体験できる。これは大きな価値である。その声が純粋であればあるほどいい。なんの混じりけもなく心からの直接の叫びであればあるほど価値を増す。ということになる。(しかし決してその場合使われる文字はただの記号であってはならない。伝えるというを手順を怠ってはならない。)(言葉は伝えるためにあるのだ。言葉の裏の形が見えるか?温度がみえるか?匂いがみえるか?)こうなると太宰治の人生が幸せか不幸かはさておき、彼が残した物語は世の中に大きな価値を残した=正解だった。と考えることができる。